最優秀賞2作品、優秀賞2作品は、サイトに全文を掲載します。

また、最優秀賞の受賞者からは、受賞のことばもいただきましたので、合わせてお届けします。

 

受賞者は

中学生の部は最優秀賞の伊井 悠馬さん、優秀賞の和佐田 真理子さん、

高校生の部は最優秀賞の牧野 生実さん、優秀賞の長谷川 彩華さんです。

 

4人の方々には賞状と図書カードを授与いたします。あらためまして、おめでとうございます!

 

※このコンクールは本を読んで思いついたことを作文にして送るスタイルです。そのため、本の結末が作文に書かれていることがあります。結末がふくまれる作文には★注意書き★をつけましたので、まだ結末を知りたくない方は、ぜひ本を読んでから作文をお読みください。

 ※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。                        

 

 

 

【中学生の部】

 

最優秀賞
伊井 悠馬さん 中2

『アクロイド殺人事件』 アガサ・クリスティ作 茅野美ど里訳 偕成社

『アガサ・クリスティー自伝』 アガサ・クリスティー作 乾信一郎訳 早川書房 

 

【受賞のことば】

 僕が、このコンクールに提出した理由は正直な話を言うと自分のお小遣いから出したくない漫画雑誌を買うためでした。もちろん、その時も最優秀賞どころか優秀賞なんかも夢のまた夢でした。ですが、応募した所最優秀賞を審査員の方から頂くことができました。僕は、今回漫画という一つの目標を持ってなにかに一生懸命になるというきっかけを持ちました。これからも、様々な目標を作ることから始めて何かを掴むことができるように頑張ります!

 

 【作品】★文中に本の結末がふくまれています★

 アクロイド裁判

 

裁判長「検察官。それでは被告人の罪を述べて下さい。」

検察官「裁判長。被告人アガサ・クリスティー女史は「アクロイド殺人事件」と題する小説において、語り手である医師が犯人であるという設定で、最後まで読者を欺いたものであります。このような推理小説の書き方は邪道であり、あってはならないものです。」

弁護人「裁判長。語り手を犯人にしてはいけないという法律は、私が知る限り、存在しません。法律違反でなければ、語り手が犯人でも問題にはなりません。」

検察官「一九二八年に米国の作家ヴァン・ダインが発表した「二十の禁止原則」というものが存在し、その一つに『作中の人物が仕掛けるトリック以外で、読者を欺いてはいけない』と書いてあります。」

弁護人「ヴァン・ダイン氏がどれほど優れた推理小説作家かは知りませんが、世界的に認知されていないルールには必ずしも従う必要はないと思われます。犯人には双子の兄弟がいたというたぐいの余りにも見え透いた設定こそ破棄すべきものです。」

 ここで本裁判の被告人アガサクリスティー女史が召喚される。

検察官「クリスティーさん。『アクロイド殺人事件』の成功、おめでとうございます。色々な意味で随分と評判になっているようで、あなたもこの作品で一流の推理作家の仲間入りをしたようです。ところで語り手=犯人というトリックが世間の常識を逸脱しているという意見があるのですがどう思われますか。」

クリスティー「義兄のジェームズが探偵小説のことを少々不平そうに『自分が見たいのはワトソン役が犯人になること』と言っていました。また、チャールズ皇太子の親戚にあたるマウントバッテン卿も殺人犯が一人称で語ることを手紙に書いていました。いい思い付きだと考えた私は、長い間この二人の考えを練っていました。それにはもちろんたいそう困難があるのですが。私は読者と知恵比べをしようとは思っていません。むしろ種々の可能性がある中から、自分自身でもはっとするような状況に思い至った時が最も幸福な瞬間です。」

検察官「推理小説の前提には読者と作者が平等の機会を与えられているという暗黙の了解があるのですがその点はどうですか。」

クリスティー「私にとっては設定ミスがないか、物語の流れや状況設定に無理はないかが重要となります。『アクロイド殺人事件』では、たまたま語り手が犯人として名乗りを上げますが、これは物語の流れからいって、これしかないということです。読者はポワロと一緒に事件を解く材料に出会います。犯人候補が多く登場するのは、私の他の小説でも良くあることで、私自身の物語展開への苦悩も表しています。また、私はさらりとした恋愛を描くのも意図しているのですが、それについてはどなたも評価して下さらないようです。」

 ここで、クリスティー女史が退廷。

裁判長「陪審員の皆さん、評決は出ましたでしょうか。」

陪審員代表「はい、裁判長。推理小説は読者と作者の知恵比べでもあり、この意味で『アクロイド殺人事件』は、作者のいつもながらの読書の推理を裏切るトリックがあり、これは作者の勝利であります。この小説にはこれ以外にも魅力があります。謎を一つ一つ解いていく推理過程は女史の得意とするところですが、まずは殺人事件というシリアスな物語vs引退してかぼちゃ作りにいそしむとぼけた探偵というアンマッチが程よく進行しています。次に作者の情け容赦ないユーモア、つまり犯人の義妹キャロラインは兄が能なし・お人よしと信じきっているが、実はその彼が自分の悪事の露見を隠すために、理詰めで殺人を犯した張本人なのです。もちろんフロラとラルフの爽やかだが一途な恋愛は素晴らしい出来栄えになっています。」    以上

 

 

優秀賞

和佐田 真理子さん 中1

「ザ・ランド・オブ・ストーリーズ」(全6巻) クリス・コルファー作 田内志文訳 平凡社

 

【作品】

 世界で一番共感できる本・世界で一番愛しい本に出会った結果(エッセイ)

 

 私は、声を大にして、世界中に叫びたいと思っていることがあります。そして、宣伝できるのなら、倒れるぐらい策を練って、宣伝したい本と作者がいます。文字にするだけで、声に出すだけで、顔を赤らめてしまうのですが、思い切って、文字におこしてみます。『ザ・ランド・オブ・ストーリーズ』と『クリス・コルファー』です。彼とTLOS(『ザ・ランド・オブ・ストーリーズ』の略称)は、私の心の九割を二〇二〇年現在占めています。なぜ、私が、こんなにも、TLOSとクリス・コルファーに熱中しているのかと疑問に思ったことでしょう。その答えは、TLOSにあります。TLOSは、私の中で、バイブルと化して、日常生活の中でも、常にTLOSに物事を置き換えて考えています。TLOSは、アレックスとコナーという男女の十二才の双子がおとぎ話の世界で冒険するファンタジーです。全六巻で、その間に、双子は、壮大な戦いに巻きこまれ、成長していきます。私は、初めて、本を読んだ訳ではありませんし、ファンタジーやSF、ミステリー、ラブロマンス。子ども向け以外にも、海外文学はだいたい四百冊ぐらいは読んできました。なぜ、そんな私が、この本のオタクとなり、ほぼ変態化というと、理由は五つあります。一つ目は、キャラクターたちの過去や性格です。例えば、主人公のアレックスの生真面目で、しっかり者なところ。コナーのピエロじみた面白さ。ゴルディロックスの勇かんさ。全員、ステレオタイプではない、ありきたりな人物設定、まさに、浮世離れしている個性的な人物達は、現実とうひに最適です。二つ目は、比喩です。TLOSには、クリス・コルファーのすばらしい想像力で創造されたアイテムが登場しますが、比喩もすばらしく、美しいのです。どこが、すごいのか?美しいのです。読んでいると宝石のように光輝く名文に出会えるのです。三つ目は、ストーリー性です。六巻という長期的な物語で、通常の場合心配されるのは、中だるみです。どんなドラマや映画でも、部作物は、大抵中だるみのえいきょうで人気が落ちて打ち切りになります。ですが、クリス・コルファーは違います。一巻ごと、テーマも敵も変えて、最大の目標を達成させるためのプロセスを読者をたいくつさせずに、ていねいに描いています。四つ目は、ちみつな場面設定やセリフです。完成された物語には、完成されたセリフが必要です。TLOSには、誤算がありません。あるのは、計算され尽くされたセリフと場面設定だけです。時々、引用したくなるぐらいのセリフです。作者がこって考えたというのが分かります。五つ目は、アイデアです。そもそも、スタンダードとなるアイデアは、男女の双子が、本に落ちて、おとぎ話の国で冒険するというもの。発想自体が、感涙です。その後も、『不思議の国のアリス』や『ロビンフッド』、フランス軍、作者の想像力は止まることを知りません。どの巻も外れがない。アイデア、セリフ、ストーリー性、比喩、キャラクター。この五つどれか一つでもかけたらTLOSは成り立たないかもしれません。とにかく、TLOSは、どの角度から見ても、熱中要素があるのです。そう私は、アイデア・セリフ・ストーリー性・比喩・キャラクター。つまり、TLOSそのもののすばらしさに熱中しています。こう言うとおかしいのですが、ただただ好きなんです。理由よりも、理論よりも、感情が勝つ。私は、結局のところ、この本のよさやすばらしさをさしおいて、説明できないぐらいの感情、もっと崇高なものをTLOSに感じているのかもしれません。それぐらい、TLOSは、私の中で大切なものになっているのです。

 そして、TLOSは、何回も読んでいくたびに発見があります。そこで、ずっと私に一番近い存在だと思っていたアレックスよりも共感できる人物を発見しました。その人物とは、作者のクリストファー・ポール・コルファーです。なぜ、その考えに至ったかというと、ある日気付いたのです。この物語を書いたのは、他の誰でもない作者イコールクリス・コルファーなんだと。文面からあふれでてくる文学やフェアリーテイルへの愛、生きづらさ、悲しみ、楽しい時のしゅんかん、比喩、アレックスやコナー、エズミア、フェアリーゴッドマザー、アザーワールドすべては、彼が創ったものなんだ。その事実に気づかなかったおろかな自分をあざけり笑いたくなる程むなしい気持ちになりました。まず第一に、生きづらさ。彼の作品には、社会的に孤立した人物が沢山登場します。学校でいじめられるアレックス、行方不明で社会から身を隠すチャーリー、優秀さのあまりうとまれたエズミア。私の気持ちを代弁してくれる彼の物語は、息をするのがつらい時手をいつでも差し伸ばしてくれました。第二に、弱さ。弱さを乗りこえて強くなる者、乗りこえられずに、「悪」となる者。人間が、こくふくしなければならない「生きづらさ」や「弱さ」は、時に美しく、時にみにくく描かれます。一人で、「生きづらさ」や「弱さ」を乗りこえることができない時は、私は、TLOSや、私の気持ちを代弁してくれたクリス・コルファーを思い出しています。また、クリス・コルファーは、「悪」や「光」、「正義」のあり方について価値観をゆるがしました。悪役でも、「なぜ」そうなったのかがくわしくえがかれるTLOSにはそれぞれ訳がありました。一巻で登場するヴィランズの悪の女王(白雪姫のまま母)は、エヴリィという名前があったこと、愛した男のために悪になりました。二巻のヴィランズは、エズミアという魔女で、ずっとTLOSでは「善」とされていた妖精達がいじめ、人格形成に歪みが生まれてしまいました。三巻の悪役はジャック・マルキ将軍で、貧しい少年時代が、権力欲への歪みへと導いてしまいました。四・五巻のヴィランズは、仮面の男で、権力欲を持つことを母親に知られてしまい、魔力をとられてしまったのです。六巻のヴィランズは、モリーナという魔女で、チャーリーと別れてから、悲しみのあまり世界支配を考えるようになってしまいました。この物語では、「善」が悪へと無意識のうちにみちびいてしまっているケースが二つあります。一つ目は、エズミアで、絶対的善の妖精にいじめられ、深い心の傷を負ってしまい、「悪」の道に進んでしまいます。二つ目は、仮面の男で、母親に、魔力を抜かれ、「悪」に行き至ってしまいます。仮説として、仮面の男は、「世界をほろぼす」大志を持っていたから母親に、魔力を抜かれてしまいました。ですが、その必要は感じられません。そして、ハジェッタという魔女は、魔女というだけで、「悪」とみなされ、つらい思いをしてきています。このように、ほとんどの児童文学が勧善懲悪なのですが、TLOSは、悪や善、正義が人によって違うことを教えてくれます。まったく違う世界観を、ステレオタイプ(勧善懲悪)が総ての児童文学にとり入れたクリス・コルファーはすばらしい一言で表すならそう思います。すべてが、正義じゃない。悪は、善でもある。このような価値観を提示し、世界観を広げてくれた。そんなクリス・コルファーとTLOSにこれからも助けを求めながら、読んでいきたいそう思いました。

 私は、TLOSとクリス・コルファーによって、信じられないぐらい愛しいものと、大切なものを手に入れました。世界観や価値観を変え、人間として成長することもできました。私の決心としては、クリス・コルファーのように、クリエイティビティを持って、本を書いて、世界中の子ども達の心の支えにしたいと思いました。また、翻訳者の方や編集者の方がいらっしゃらなければ、私の元にTLOSが届くこともなかったと思うので、本に関する仕事に就いてみたいと思いました。そして、TLOSに出会ったことで、クリス・コルファーのツイッターやインスタ、インタビューを見ることが多くなって、英語に関する意欲が高まって、原書もこう入して、自分で少しずつ翻訳しています。英語もクリス・コルファーのインタビューを字まくなしで見たいがために、人一倍努力して、少し先のカリキュラムまで勉強しています。一冊の翻訳本によって、人生が変わったので、もっと、TLOSについて、皆に理解を深めてもらいたいと思います。世界で一番共感できる本・世界で一番愛しい本に出会った結果は、私の場合、TLOSという本を開けば会える協力者とクリス・コルファーという理解者を得ることができたのです。        <完>

 

 

 

【高校生の部】

 

最優秀賞
牧野 生実さん 高3

『封神演義』 許仲琳作 渡辺仙州訳 偕成社

 

【受賞のことば】

 最優秀賞に選んでいただき、大変光栄に思います。前年度と同様『封神演義』を選び、作文に挑戦しました。前回そして今回と、書くことで益々作品に対する愛が深まったと思います。またアウトプットの手段としての執筆のみならず、書くことそのものを楽しむことができました。高校卒業後も書き続けたいと考えています。改めまして、受賞致しましたことを心から感謝申し上げます。

 

【作品】※PDFの応募作品のため、改行位置をそのままにしています。

タイトル:『封神演義』―あれから一年、受験生が哪吒に惚れ直す―

 

1)私と封神演義の因縁

 私と封神演義との運命的な再会から一年ほどが過ぎた。既にかなり厳しい受験期に突入し

ている私だが、初めて出会った小学三年生の私、再会した高校二年生の私をその魅力でがん

じがらめにした封神演義は、性懲りもなく高校三年生となった私をもまた虜にしてやまな

かった。それも、読めば読むほど味わい深くなってくるのだから、性質が悪い。私はまた、

取り憑かれたように封神演義に没頭した。

 封神演義は史実である殷周(易姓)革命に基づいた、商(殷)の紂王の堕落に対する周の文

王・武王の民衆に支えられた台頭と、仙界と人界の間に新たに神界を設置する為の殷周戦争

の犠牲者の封神という、ふたつの軸が複雑に絡み合って成されている物語である。初めての

出会いについては昨年度の文章に任せるとして、今回は愛して止まない封神演義の魅力につ

いて更に深く語っていきたい。

 

2)封神演義の魅力―哪吒へといざなう道―

 はじめに、封神演義の物語としての魅力はなんと言っても圧倒的な没入感と、流れの美し

さである。まず読み始めてすぐに、動乱の予兆に対して鳥肌が立つ。一読者として妲己の真

実を知りながら読み進めているのに、まるで物語の内部に取り込まれてしまったかのよう

に、王が段々狂っていく姿に、恐怖を感じずにはいられなくなる。私は時計の修理に関する

動画を観たことがあるのだが、封神演義の導入部分はまさに、運命の歯車が少しずつ狂いだ

して、最初は小さく、そしてその小さなずれが積み重なって音を立てて噛み合わなくなって

いくようだと言える。読者を掴んで離さないこの引き込まれる導入部分こそが、封神演義を

無我夢中に読み進ませる要因のひとつなのではないかと思う。

 さらに封神演義の世界観もその要因に含まれると考えている。仙術や道術などが出てくる

関係で主人公に対して様々な救いの手が存在しているので、キャラクターたちが死に近付い

たり死んだりする緊張感を読者に与えることができると同時に、一方で回復させたり生き返

らせたりして主人公を含む中心的なキャラクターを物語の中心から離さないことで読者のこ

とも物語から離さずにいることができるのである。(一秒の時間も惜しい受験生という立場

から見ると、理論的には睡眠をとることなく回復して睡眠をとったのと同程度の体力を維持

できることになり、大変羨ましい限りである。)

 また、天界、仙界、人界など様々なバックグラウンドを持つ人物らが一堂に会し対立や協

力、師弟関係、主従関係など様々な関係性を構築している封神演義であるが、種族として完

全に人間である存在が少ないながらそのキャラクターたちが極めて人間的であるという点

で、自己投影をしやすくして読者を惹きつけているとも言える。弟子が師匠に反抗したり、

総大将の言うことを一介の兵士が無視したり、娘を殺されて怒ったり、女の美しさに溺れて

いったり、それら全てがごくごく当たり前の出来事であったり感情であったりする。紂王で

さえ最期に反省をするのだ。少し格好つけて言えば、キャラクターたちは誰もが、どうしよ

うもなく人間だった。(逆に一箇所だけこれまで人間的な面が強調されてきたキャラクター

に道術使いという設定がのしかかった部分がある。それが下巻で楊戩が人を恨む気持ちや故

人を痛む気持ちをなくしたと哪吒に語った場面である。すぐに腹が立ったりひどく恨んだり

していては自分本位になりやすく、私も学校で自習している時に他学年に対し五月蝿いとひ

どく腹を立てたことがあったが、今思えば自分本位で理不尽な怒りでしかなく、そうした感

情を制御できるようになりたいと思わないではないが、修業によって大切な感情までも失っ

ていく様はどこか痛々しい。)

 こうした魅力が封神演義を開いた人をガッチリと掴んで最後まで読み進ませるのだ。そし

て、文化的背景について考えれば、桃の木を植えている姜子牙の描写があるが、桃は仙木で

あることから、勿論様々な道術が登場する封神演義の世界観を補強するものであると考えら

れるが、一方で三国志演義で三人が桃の木の下で誓いを交わす描写と同じで、「真実・史実

ではない」=演義であると示すものだとも解釈できる。こうした表現で作者と読者で作品を

堪能する上での暗黙の了解を形作っておくところはとても面白い。そもそも物語というもの

は多面体で、作者は伏線をはったり美しいオチを用意したりと執筆という過程をもって多面

体を形作るが、それに対して読者は独自の理解などを加えて更にこの多面体を複雑にしてい

くのである。実際これが、時には作者ですら思いつきもしなかった発想などもあるほど読者

の中でも解釈が割れる原因でもあって、書物の趣深さでもある。その中で共通の一面、どう

してもわかってほしい一面などをしっかりと挟み込んでおくというのは、許仲琳が意図的に

行ったかはさておいて、興味深いことである。

 なお封神演義の文化的側面について、私の中で昨年度と最も変化を遂げたのは漢詩への興

味である。実は最近私は中国名詩選を購入するなど白文で漢文を理解する試みを行っている

のだが、封神演義では漢詩をわかりやすく日本語に訳して載せているので、漢文で読んでみ

たいと思ったのだ。文王が漁師の口ずさむのを聞いただけで音律から賢人を察するという表

現があったが、これは高校レベルで学んでいるだけではわからない、中国語での美しい音の

流れがあるということで、漢詩は実際には単なる漢字の羅列ではなく決められた声調に沿っ

て場や時に即して作られた美しい詩であるので、いつかネイティブが理解するようにその美

しさを理解できるようになりたいのである。

 また世界史を昨年以上によく学んでいるからだろうか、封神演義の現代性と、人間臭い

キャラクターたちが表す人間の普遍性に目が行くようにもなった。この現代性と普遍性は封

神演義をただの演義にとどまらせず、私達に学ぶ機会を与えてくれる。例えば仙界での宗教

戦争について言えば、人界の戦争に介入して起こっている様を見ると、各地の戦争に介入し

て代理戦争を行った米ソ冷戦にも似ていると言える。また、戦闘を宝貝に頼るところが、使

いこなせるようになるまでには多少時間がかかるが絶大な力を発揮する今日の戦争の武器、

例えば戦車や火砲などの使用と類似しているし、戦争で名前がついているキャラクターがど

んどん死んでいくところが実際の戦時中の命の軽さの表れのようであったりもする。さら

に、正義と正義のぶつかり合いだからこそ長引くという戦争の本質を見ることもできた。

キャラクターたちが皆どうしようもなく人間だったと前述したが、まさにそれ故に戦争は起

こるのだ。そのような状況下で悪として描かれるキャラクターもまた、同情出来ぬではな

い。特に申公豹の嫉妬には受験勉強でつい自らを省みず才能を羨むことがある自分に深く突

き刺さる。というのも、私が現実世界でこれから先、申公豹にならないでいられるとは限ら

ないからである。また、敵味方無くなるのが死後のみだというのも現実の無常を表してい

て、どうにも封神演義の封神を昨年度のような穏やかな気持ちで受け入れることはできそう

にない。これは現代の戦争でもまたほとんど真理であって、救われない閉塞感を感じるの

だ。それだけでなく物事が大事に発展していく際には、一人ひとりの行動によって少しずつ

火種が大きくなっていくこともあれば、急激に大きくなってしまうこともあり、どちらであ

ろうと結局争いはすぐに起きてしまうということも学ぶことができる。作中の状況を示せ

ば、目の前の敵を殺すという戦場に於いては最善の手立てが、後々宗教戦争につながって自

分を苦しめるなど、キャラクターたちは勿論読者でさえ予想もできないだろう。

 

3)封神演義イチの「推し」、哪吒を語る

 そんな封神演義の数々の仕掛けの中にあってその術中に嵌ってしまったのか、私は誰より

も人間臭い哪吒というキャラクターが大好きになってしまった。所謂「推し(=特に好き

な、という意味)」であり、私は「哪吒ヲタク(=愛好者、ファン)」である。

 哪吒という人物は、はじめから、自らの上に立つものに自分なりの道理を押し付ける子

供っぽさはある一方で、自分の起こした行動に対して(普通の子供ではないにしても)7歳に

して責任をとっていて、現代人も見習うべき格好良い行動である。

 また、これは直接的には哪吒とは関係がないが哪吒の名を冠した章では、普通の子供では

ないと明らかに分かる状態で生まれた時も哪吒を愛し、迷惑をかけられたのにも関わらず死

後の廟をたてて復活の手助けをするなど、無償の母の愛も良く描かれていて、自分の母に感

謝する気持ちを思い出させてくれる。そんな哪吒を産んだ母にも、生まれてきてくれた哪吒

にも愛が止まらない。一方で父とは対立して兄らの主張する儒学的常識に対して、自らの恨

みを優先する子供っぽさがいつまでも健在だが、ただ親とどうしても意見が合わないことも

あるだろうし、廟を壊されるという、ある意味二度殺されたような父親の失態であったの

で、贔屓目の可能性も否めないが、それを咎めることは私にはできそうにない。

 哪吒について、訳者あとがきにあるように、哪吒は中国では少年英雄の象徴で、日本でも

封神演義以外の作品でも多く活躍している。私が心惹かれたのも、この純粋な少年らしさと

その強さによるのかもしれない。哪吒のセリフに師匠を恐れて天を恐れないとある通り、大

の大人に対しても行われる、実力に裏打ちされた傲慢な挑発が否応なく哪吒の少年性を高

め、その強さとのギャップで私をノックアウトした。勿論同じ少年ならば白鶴もいる。しか

し私は、ただ強い立場、圧倒的強さを持つだけの存在を推す気にはなれない。神だの、仙人

だのが沢山登場する封神演義だからこそ、超越的な存在ではなく、かえって最も人間的な存

在を応援したくなるのだ。

 ただ哪吒にも可愛らしい一面はあって、道術の先輩に道兄、道兄と素直な感情表現で懐く

姿が印象的だ。哪吒の子供っぽさの中に、大人というか強い者に憧れる気持ちがあること

が、余計その子供らしさを強調しているように思われる。

 さらに、相手が弱くても打ち合って遊ぶ哪吒が軍全体として追い詰められて真剣に戦う姿

は普段とのギャップで惚れ惚れする。また哪吒は蘇りたての頃は高位の仙人などにも敬意を

払わず戦いを挑んでいたが、修行を積むことでそういったことはしなくなる理性的な成長も

見せている。それだけではない。哪吒はすぐに先陣を切る勇気や、危ない時にいつでも助け

に入る優しい心も持ち合わせている。一度は哪吒と対立した父李靖とも仲直りをし、危険だ

と悟れば驕らず逃げることができるようになるなど、その成長事項には枚挙に暇がない。そ

うして成長していってからも子供だと侮られてもそれを逆手に取って挑発をやめない哪吒の

胆力も見習うべきところがある。

 また、生まれたときから特別だった哪吒はそれにかまけてしまったところがあった、とい

うような言葉あり、その前のシーンで才能(哪吒)が努力(余化)に負ける瞬間が描かれてい

る。これは「推し」がやられている場面でありながら、努力が実ると、元々の天才にも勝つ

ことができると私に希望を与えてくれた場面でもある。そして、自分の弱さを認め厳しい修

行にも耐え力になると約束する哪吒は、精神的に大きく飛躍を遂げ、さらにきらびやかに見

えた。受験勉強に於いて自分が苦手な科目を避けて、得意な科目にばかり逃げてしまってい

た私は、これを読んで少々勉強する科目の比率を変更した。「推し」が頑張っているのに、

そのヲタクの私が頑張らない道理はないのだ。

 こうして考えてみると哪吒はギャップと成長の人だ。元々ギャップの大きなキャラクター

ではあったが、成長を繰り返してどんどんそのギャップも更新していき、私のような哪吒ヲ

タク、ひいては読者全体を飽きさせない。現代でもギャップ萌え(=意外性による好意)など

という言葉があるが、当時の人もそのように考えていたのかもしれない。そう思うほどに許

仲琳の描写は鮮やかだ。ヲタクの贔屓目を抜きにしても、哪吒の生気は開いた本から溢れ出

そうなくらい輝いている。非凡で、素直で、傲慢で、強くて、優しくて、努力家で、誰より

も生きている哪吒を、好きにならずにいることなどきっと不可能だ。私を引き込んだ導入部

分も、道術・仙術に相対化されたキャラクターたちの人間臭さも、文化的背景も、哪吒に出

会い愛する為の布石だったのかとすら思う。それほどにまで哪吒は、17年しか生きていな

い未熟なこの身で恋よりも愛を覚えた存在なのだ。受験勉強にふと疲れてしまった時、私は

封神演義の下巻を引っ張り出してくる。哪吒の素晴らしい成長が描かれた下巻の、その表紙

で当の哪吒が生意気に陣取って、真剣な表情の中に微かに見える不敵な笑みで、私を煽って

焚きつけるのだ。きっと受験当日の朝もこうやって哪吒に励まされるに違いない。

 

【補足資料】

〈2019年度応募作品〉

私を知る〜封神演義が教えてくれたこと〜

 封神演義は私が初めて読んだ長編小説だった。小学3年生の1学期に、学級文庫として教

室においてあった本で、外遊びが嫌い且つ読書が大好きでずっと教室に引き籠っていた私

に、副担任の先生がそんな私を責めることもなく薦めてくれた本だった。その時に「ちょっ

と難しいかもしれないけど、そんなに本が好きで読んでいるならきっと平気だよ」と言わ

れ、否定されずに心行くまで読書を楽しめることに内心小躍りしたのを今でも覚えている。

あのハリーポッターシリーズを読んだのも小学4年生だったので、本当に初めて読んだ長編

だった。ハリーポッターシリーズとは違って実際には上中下の3巻しかなかったのだが、話

の構成に引き込まれて数時間で読了し、薦めてくれた先生すら呆れさせたことはなぜだか記

憶に焼き付いている。封神演義は、仙界と人界の狭間が曖昧になっている世界で新しくその

間に神界を設置するという仙界での取り決めと、名君であった商の紂王が女禍という神仙を

侮辱したことで報復され国を乱していくという話が並行して進み、周の武王らが紂王を倒す

という過程での死者を主人公で武王の側近である姜子牙が神として封じる、つまり封神を行

うという話になっていて、史実である殷周易姓革命をもとにフィクションとして描かれた作

品である。実際には確かな史実は少ないのだが、小学3年生の時点で中国の歴史や習慣とい

うものを少しでも知ることができたのは自分にとって大きな収穫であり、その後の中学受験

での日本史や大学受験での世界史への興味に結びついたと考えられる。現在でも私は世界史

に深く興味を持っていて、その中でも特に中国史は学べば学ぶほどさらに深い興味へ導かれ

る為、とてもそそられる。封神演義の作品自体は、先生からは難しいと言われたものの、

キャラクターやその特徴を絵で説明してくれていたので、想像がつきにくい技でも鮮明にイ

メージできて、本当に面白く感じたのを覚えている。特に私は哪吒という、子供っぽい性格

から戦いを通して心身及び仙術が成長していくキャラクターが大好きで、哪吒が成長する過

程、特に誰かにやられてしまい悔しがるシーンは、高度な仙術争いと慢心からくる敗北が両

立していてとても興奮した。学級文庫が少なかったことも相まって一週間に1回は読み返し

ていたのも今でも私に残る良い思い出だ。封神演義はそれを参考に漫画化及びアニメ化もさ

れている名作であるのだが、作品の中で飛び交う様々な仙術達はフォトジェニックならぬ

ムービージェニックであると考えることができ、当時の私はキャラクターや技が動くところ

を想像して作品を読み進めることもあったので、私のグラフィックやアニメそのものへの興

味もこの頃に形成されと言って良い。さらに、小学5年生で私はその当時図書室に仕入れた

ばかりの長編だった怪盗ルパンシリーズと運命の出会いを果たしたのだが、それを読もうと

思ったきっかけも封神演義だった。私は今ではルパンシリーズを原語で読みたいと思うほど

の熱烈なファンであるのだが、ハリーポッターシリーズ以上の長編であるルパンシリーズを

読んでみようと思ったのも、最初に読んだ長編たる封神演義が面白かったからである。こう

して封神演義はたった一つの話でありながら私を大きく動かし私の趣味や志向を形づくって

いった。現在でもその時形成された私らしさは残っていて、特にアニメに関しては、中学校

に入学してから元々持ち合わせていた興味と周りの環境のおかげで詳しくなり私の趣味とし

て確立させることができた。さらにアニメ関連での友達ができ、アニメを通して交流するこ

とが増えていった。つまり、封神演義という作品は全てが私の血肉となった私の原点とも言

うべき作品なのである。

 最近になって私は封神演義のことを思い出して、ネットで探して買ってみた。小学生の頃

の熱狂というものは意外と成長しても忘れがたいものであり、それはちょうど子供の頃に好

きだった懐かしいゲームを、社会人になって急に思い起こしてやってみるというようなこと

に似ている。本が届いてから、私が小学校在学中の頃にはハードカバーだった封神演義3巻

セットがソフトカバーになっていたことを知った私は、歳月の流れをその身に深く感じた。

高校生になってから読むと、小学生の頃とは変わった見方ができるようになるものだが、私

の場合本格的に中国史を学び始めてから読み返したので、「ああ、これはこういう制度を指

していたのか」とか、「これはこういうことだったんだな」と感じることが多くなった。例

えば、紂王の死後王位についてほしいと言われた武王が、私のような者が王になどなれない

と主張し辞退しようとするところは、文武百官と共に迎える禅譲の儀式を示していて、これ

は伝説上の五帝から続く中国伝統の王位継承方法である。作品のあとがきにも書いてある通

り作者として一番可能性が高い許仲琳は明代の人物であり実際の殷周易姓革命とは時代にズ

レがある為、書かれている習慣や制度が明代のものであったりすることから、そのギャップ

を探すのも高校生になった私ならではの楽しみ方だ。また、封神演義の最後には死んだ者が

全て敵味方関係なく神に封じられそれを受け入れるというシーンや、悪逆非道の限りを尽く

した紂王が反省した様子を見せ丁寧に埋葬されるというシーンがある。そのシーンについて

子供の頃は敵なのだから神にする必要も丁寧に埋葬する必要もないと感じていたが、そうで

はなく死者への敬意や、勧善懲悪かつ主人公たちつまり周側の慈悲深さも見せるためにその

ような結末を迎えさせたのだと自分なりに考察することが出来る。このように自分で解釈で

きるという点も封神演義を私にとって非常に魅力的な本に見せる一因である。

 この封神演義という作品は幼い私を魅了して今の私を形成しただけでなく、高校生になっ

た私をも虜にする魔性の本だ。小学生で出会った本というものは大抵がその年齢向けに作ら

れていて後になって読んでみると落胆することも多いが、この封神演義はそれをさせないと

ころが大きな特徴だ。それはまるで芳醇なワインの香りを理解できずそれをただの見目麗し

い色鮮やかな飲み物だと思っていたのが、後になってその香りの豊かな膨らみや贅沢さに気

が付くかのようであり、もしくは、奈良の寺院の良さを理解できずにぐずっていただけだっ

たのが、後になってその侘び寂びを趣深く感じるかのようでもある。所謂噛めば噛むほど味

わい深いという言葉は封神演義の為にあると言っても過言ではない。恐らく誰にとっても、

思い出深い本というのは存在するだろう。小さい頃に愛した本、それは今読み直すと全く違

う一面を見せる可能性を持つ宝の箱だ。少なくとも私はこの宝箱を開けることで自分を再発

見することができたのだから、きっと誰もが何かしら得るものがあるはずだ。それを探索す

ることをここに勧奨し結びとする。

 

 

優秀賞
長谷川 彩華さん 高2

ザ・ディスプレイスト 難民作家18人の自分と家族の物語』 ヴィエト・タン・ウェン編 山田文訳 ポプラ社

 

【作品】

 安全を求めた先で

 

 様々な理由で、様々な国から安全な国へ逃げている難民たち。

 わたしは以前からそのことについて調べており、逃げてきた難民の国ではどのようなことが起きていて、どのように逃げてきたのかということについて知っていくうちに、難民は安全な国へ入れた後、どのような暮らしを送っているのかについて興味がわいた。

 そこで、アメリカへ渡った難民による体験談が書かれた作品『ザ・ディスプレイスト 難民作家十八人の自分と家族の物語』を読むことにした。

 アメリカは、トランプの壁などの問題があるものの、庇護申請者が他の国に比べてとても多く、UNHCRによると、一九七五年からの統計で、今まで三十万人以上もの難民を受け入れてきた。それだけ多くの元難民がいるのならば、様々な背景を持つ人も多いに違いないと思いつつ、本を読み始めた。

 

 アフガニスタン出身のジョセフ・アザムさんは生まれた時、祖父に「ムハンマド・ユースフ・アザム」という、色々な意味が込められた名前を付けられた。その後、数か月のうちに、ソヴィエトの占領により、アフガニスタンは一般市民が襲撃をうけ、町が破壊されていく国となった。

 彼の両親の家族は、アフガニスタンで政治活動に携わっており、刑務所で過ごしている親戚もたくさんいたため、彼の家族は狙われやすく、他国へ逃げることにした。

 インド、ドイツを経て、アメリカのニューヨーク州へたどり着き、亡命申請をした後、ニューヨークで暮らした。

 彼の母は、ビューティー・スパで掃除や施術をする人として雇われ、彼の父は売店で新聞を売る仕事に就き、自分たちの店を開くためにお金を貯めた。たまったお金で、商売を始め、最終的には、エンパイア・ステート・ビルの陰に店を構えた。

 彼が学校に通う頃には、いい暮らしを求めてやってきた同じような家族が周りに多く住んでいたので、その子供たちと一緒に学校ヘ行った。

 しかし、学校に来るのはそういった子供たちだけではないため、他の白人の子供たちよりも、彼らは人目を引く存在となった。さらに、彼らの身分証明書には「外国人居住者」という記名がされており、アウトサイダーだと感じずにいたことはないと語っている。

 彼らは、アメリカ人にはあまりない、独特な名前を持っているため、それを気にしていた。学校では「マイケル」や、「ジェシカ」など、アメリカ人の名前を仮名で呼んでほしいという人もいたが、彼は祖父からもらった名前を捨てたくなかったため、「ジョセフ」という名前に響きが似ている自分の「ユースフ」というミドルネームで呼んでほしいと先生に言った。

 しかし、家族でカリフォルニア州に引っ越した時、彼の父は彼の名を、高校に「ジョセフ・アザム」という名前で登録した。彼は自分の名前が変えられたことで、今までの自分がなくなってしまったように感じ、自分が偽物であるのではないかさえ思うようになり、彼が十八歳の時、市民権獲得手続きの際に、名前を「ジョセフ・ムハンマド・ユースフ・アザム」にするまで苦しんだ。

 

 ベトナムからアメリカへ渡ったティ・ブイさんは、自身の体験を体験談という形ではなく、イラストで表現している。

 「そして何を失う?」という文字が書かれたページに、一人の女性をとり囲むような形で、ガラスの破片のようなものが描かれていて、破片には、家族、友人、ルーツ、ことば、生活様式、仕事、文化の感覚、地元での暮らしのノウハウ、故郷、と記されていた。

 

 また、レイナ・グランデさんは、メキシコでとても貧しい暮らしをしていたために、アメリカとの国境を家族で越えて、不法移民としてアメリカで暮らした。不法移民ということは、日々、強制送還に怯えながら生活していかなければならなかった。

 父は、彼女がまだ物心ついていなかった時、アメリカヘ移り住むための準備をするために、数年間いなかった。だから、彼女は父のことを全く知らず、アメリカへ来た後も感情や心に壁を感じ、さらに彼女がアメリカに同化したり、英語を学んだりするとまた、言葉が壁になり、さらには教育が、彼女と、小学校までしか行っていない父と母との距離を広げていった。

 その教育によって、学校では彼女にトラウマが与えられた。英語を話せなかった彼女は、教室の端に席を追いやられ、先生からも生徒からもいないのと同じように扱われた。さらに、図書館においてある本の内容は、彼女が経験して共感できるというものが少なく、彼女は自分が目に見えない存在なのではないかと感じていた。

 彼女は、家族との壁や、こういった他から見捨てられたような感覚によって、彼女自身の居場所を見つけることが難しかった。だが、最終的に永住権が認められ、今幸せな生活を送っている彼女は、自分を幸運だと思えるようになっているのだという。

 

 戦争から逃れるために、イランからアメリカへ渡った、ポロチスタ・カークプールさんは、アメリカで、とても貧しい暮らしをしていた。

 彼女は、貧しいからか、イラン出身だからか、いろいろな人、特に先生からいじめを受けていた。

 幼稚園の時に、「ご飯を食べる前におやつを食べてはいけない」というルールを破って、それを注意してもやめない女の子のことを先生に言うと、「この密告者が」と言われた。

 小学生の時には、臨時教師に、「僕のイランの恋人」というあだ名をつけられた。彼女はアメリカ人がイラン人を嫌っていることを知っていたから、本当にやめてほしいと思っていた。さらに、その先生は、彼女が舌を出していたら、彼女の口の中に親指を入れてきた。彼女は意味が分からず、変だと思った。

 学年が上がるにつれてそういうことはなくなったが、大人になってから、彼女はある悪夢を見る。九、一一が起きた時、「アメリカが安全だ」と思っていたのは間違いだと知り、それがきっかけで、イランの悪夢を思い出してしまったからだ。

 その悪夢は、黒い服を着たテロリストが、銃と三刀を持って彼女を人質にする、という夢だった。

 

 イランからアメリカへ渡った、ディナ・ナイェリーさんは、アメリカヘ渡る前にロンドンへ行き、学校へ通っていた。通い始めた最初はみんな遊んでくれて、英語も教えてくれていたが、数日経つと、その子供たちの親が何かを言ったのか、待ち伏せされてお腹を殴られたり、指をドアで挟んで切断されて病院で縫ってもらわなければならなかったりと、いじめを受けるようになった。

 その後、その学校には行かず、イランヘ少し戻った後、彼女が十歳の時にアメリカのオクラホマ州へ移り住み、新しい学校へ行った。多少の人種差別はあるだろうと思っていた彼女だが、みんなが、中国人などのアジア人ヘの侮蔑用語である「チン・チョン語」で侮辱をしてきた。彼女は、彼らは世界のことを全く知らないと思った。

 ある日、彼女は先生に、「ここに来られてとても感謝していることでしょうね」と言われ、その「感謝」というものを態度で示さないと、ここで手に入れたものを全て失ってしまうと思った。

 彼女の母もつらい経験をしていた。イランにいた時、医者をしていたが、アメリカでは製薬会社の工場に勤めた。しかし、考えを言葉に、英語にするのに時間がかかったため、彼女の四分の一しか勉強していない上司に、「頭が悪い」と言われ、誰かが失敗すると彼女のせいにされた。

 ディナは、アメリカ人は、彼女のような移民からの感謝の気持ちがほしいのだと思った。彼女の体験談を聞くふりをして、本当はどんなところに感謝しているのか知りたいだけだ、と気付いた。

 

 難民とは、「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れた人々」と、一九五一年の「難民の地位に関する条約」で制定されている。

 アメリカに移り住んだ人々の環境は、以前より格段に上がっていることは確実であり、「命を狙われてしまう」と怯える必要は少なくなった。だが、命を狙われることとは違った形で怯えなければならなくなってしまった人が、少なくない。

 彼らは、まったく未知の世界で生活している。自国やアメリカでの生活で感じたこと、経済状況や肌の色、出身地や移住してよかった・悪かったと感じ方などは人それぞれだが、共通して「よそ者」と感じていた。

 当然のことだと思うかもしれないが、「この人は○○国出身だから近づいちゃだめよ」と親に言われているアメリ人の子どもや、そう思っている先生によって、意図的に避けられていたのだ。

 結論からいうと、彼らは差別され、怯えている。彼らの体験談では、アメリカに移住してから暴力を受けている、ということは書かれていなかったが、メンタルでの傷は大いに受けている、という内容が記されていた。

 それは、誰かに何か嫌なことを言われた場合だけではない。彼らの肌の色、身振りや文化がアメリカ人と違うから、と気にしてしまうことで、ストレスを受けていることもある。

 ジョセフさんは、文化の違いによる名前を気にしていた。わたしは、彼が自分の名前に怯えていたのではないか、と思っている。つまり、祖父から名付けられた、という大事なルーツや故郷、文化の感覚を失うことに怯えていたのではないか。

 レイナ・グランデさんはまず、学校で学ぶことによって両親との壁ができ、学んでいくうちに、どんどんその壁が頑丈になっていった。それは彼女の両親が小学校までしか行っていなかった、という貧困環境によってつくられている。彼女が教育を受けられたということは、環境がとても改善された、ということが断言できる。しかし、それと同時にその教育が、学校の中で彼女を見えない存在にし、彼女にとっての拷問の時間を与えた。彼女は、英語を学んだことで、家族とことばを失った。

 ポロチスタさんは、先生からいじめを受け、苦しんでいた。先生という立場の人間は、たとえ貧しい移民であっても、高級住宅街に住んでいるアメリカ人であっても、平等に扱わなければいけない。扱うベきである。特に、過去にトラウマを持つ難民に対しては、注意深くケアをしていかなければいけない。

 ディナさんは、他のクラスメートに侮辱されているのにもかかわらず、先生に、「ここに来られてとても感謝していることでしょうね」と言われていた。難民へのケア、というのはしないのが普通なのだろうか、という疑問さえわく。そしてディナさんの母は、あまり英語ができないという理由で差別を受け、会社で誰かが失敗したら、彼女のせいにされた。

 では、どうしたら、難民としてアメリカに移住した元難民・移民に対する差別が改善されるのだろうか。

 解決するためには、難民でない、受け入れる側の人々が紛争などについての正しい知識を学び、それぞれの難民に対しての理解を深め、徐々に、元難民を安全な自分たちの国ヘ受け入れていくことが大切である。

 わたしたち日本人は、先進国といわれる日本で身を危険にさらされることなく、安全に暮らしている。だからこそ、もっとこの国へ難民を受け入れる責務があるのではないか、とわたしは考える。

 しかし、日本と難民、というと、法務省のサイト(http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00139.htm)によれば、平成三十年の難民申請者は一万四百九十三人で、そのうち難民認定を受けた人々は四十二人と、他の難民を受け入れている国と比べてとても少なく、書籍や情報も少ない。

 日本はこれから、少子高齢化により働き手がどんどんいなくなっていく。だから、わたしたちともに生きる覚悟をもち自国を離れた難民を、排除する前にいま一度、わたしたちとともに歩む働き手としても、再考していく必要があるのではないだろうか。

 日本の社会に難民が増える時までに、先ほども述べた通り、彼らによりそい、過去のトラウマから救い出す手助けができるよう、これからわたしたちは、正しい紛争や難民についての知識を学び続けていかなければならない。