最優秀賞2作品、優秀賞3作品、特別賞2作品は、サイトに全文を掲載します。

 

 

ここでは、高校生の部で最優秀賞を受賞なさった室井 怜音さんの受賞のことばと作品全文、優秀賞を受賞なさった椚山 亜莉沙さんと柳 雄輔さんの作品全文をご紹介しましょう。
室井さん、椚山さん、柳さんには賞状と図書カードを授与いたします。あらためまして、おめでとうございます!

 

 

このコンクールは本を読んで思いついたことを作文にして送るスタイルです。そのため、本の結末が作文に書かれていることがあります。結末がふくまれる作文には★注意書き★をつけましたので、まだ結末を知りたくない方は、ぜひ本を読んでから作文をお読みください。

 ※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。                        

 

 

【高校生の部】

 

最優秀賞
室井 怜音さん 高1
『ノートル=ダム・ド・パリ』 ユゴー作 辻昶、松下和則訳 岩波文庫

 

【受賞のことば】

 ノートル=ダム大聖堂の火災の映像を見たときに感じた気持ちを何かの形で綴りたいと思っていたので、このような機会を与えてもらえて感謝しています。また、自分の思いを他の人にも読んでもらうことができ、とてもうれしく思います。
 この作品を読んで、パリという街とそこで生きる人々の様子を知ることができました。次は、別の角度から見たフランスが描かれている作品に挑戦したいと考えています。

 

【作品】★文中に本の結末がふくまれています★

 街を見守る大聖堂と人間の運命

 

 二〇一九年四月十五日、パリのノートル=ダム大聖堂から煙が立ちのぼり、尖塔がくずれ落ちる映像を見たとき、僕は衝撃で言葉を失った。というのも、二年前の夏、僕はこの大聖堂を訪れ、塔の階段を上り、大聖堂の上から見るパリの景色に感動したのだった。パリの中心、シテ島にどっしりと構え、ずっとパリを見守ってきたこの大聖堂は、現在、鉄パイプに支えられ、シートに覆われた痛々しい姿でたたずんでいる。
 僕は、この機会に、ユゴー著『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んでみることにした。物語の舞台は一四八二年のパリ、醜い容姿の鐘番カジモド、司教補佐クロード・フロロ、ジプシーの踊り子エスメラルダの三人と、彼らを取り巻くパリの様々な階級の人々の様子がダイナミックに描かれた小説だ。これと同じく実在する建物を舞台にした小説に『オペラ座の怪人』がある。オペラ座の地下に住む怪人が女優クリスティーヌをめぐって次々と事件を巻き起こすサスペンスだ。オペラ座の舞台裏の巧妙な仕掛けには息を飲み、あの建物にそんな世界があるとはと興味をそそられたものだ。『ノートル=ダム・ド・パリ』では、建物の中にとどまらず、外で起こる出来事や人々の様子まで、より広い視点で書かれている。筆者の指示で映画のように場面が切り替わるので、僕はミニチュアの世界を上からながめ、細部を小型カメラで見て回っているような気分になった。
 もちろん、物語の中心にはいつもノートル=ダム大聖堂がある。ノートル=ダムは、カジモドにとって宇宙そのもので、カジモドが一番に愛情を注ぐのは大聖堂の鐘だった。フロロがエスメラルダへの欲情にもだえ苦しむのも、カジモドに救われたエスメラルダがかくまわれて、三人の激しい攻防が行われるのもノートル=ダムである。大聖堂前の広場で起こる数々の出来事、挙句の果てには民衆の攻撃を受けても、それを静かに受け止めるノートル=ダムの存在感。それは、今回僕が見た、火災に見舞われてもどっしりと構えるノートル=ダムの映像とぴったりと重なった。
 そんな大聖堂の様子とは対照的に、そこで人間たちが繰り広げる物語は、激しい情念のぶつかり合いだ。エスメラルダに歪んだ愛情を押し付けるフロロ、護衛隊長フェビュスに一途に恋するエスメラルダ、婚約者がいながらもエスメラルダに求婚する不誠実なフェビュス、そしてエスメラルダに純粋な愛情を抱くカジモド。それぞれの思いはどれも一方通行で、ハッピーエンドとならないところが、何とも言えないむなしさと切なさをかき立てる。カジモド、フロロ、エスメラルダ、この三人はみな、自分の置かれている立場を超えたものに惹かれ、それぞれの「愛情」の形で自分の境遇を乗り越えようとする。カジモドは、自分の醜い外見に加え、鐘番になってから耳が聞こえなくなったことで、大聖堂に閉じこもるようになった。しかし、死刑になりそうになった自分をエスメラルダが救ってくれたことで、彼女に愛情を注ぐようになり、今度は自分が彼女を死刑場から救い出し、ノートル=ダムの中にかくまう。大聖堂の中でも、フロロの魔の手が伸びてくると、迷いなく主人にたてついて守る。しかし、エスメラルダは、カジモドの人間離れした外見を簡単に受け入れることができず、最後まで彼の姿をまともに見ることもできないし、心を許すこともない。カジモド自身もそれをわかっていて、なるべく姿を現さないようにする。一方フロロは、幼いころから司教になるように教育され、弟の面倒を見つつ、カジモドを拾って育てていたが、エスメラルダに恋をした瞬間からすべてが変わる。司教としてあるべき姿と愛するものを独占したい欲情の間に挟まれ、やがて狂気ともいえる歪んだ愛情として爆発する。当のエスメラルダはといえば、二人からの思いには一切目もくれず、ひたすらフェビュスを思い続ける。そしてフロロから死刑か自分を選べと問われると、迷わず死刑を選ぶ。結局この三人は思いを寄せる相手と結ばれることはない。愛する人を見つけたことで、新しい運命を切り開きたいと、情念のままに行動してはみるものの、枠の外に出てもありのままの自分を受け入れてもらうことは簡単ではなく、運命を変えることができずに終わる。
 この悲劇的結末は、自分の身に置き換えてみると悲しくなる。人間は、生まれながらに背負った運命を変えることはできないのか。しかし僕は、人間は何かを成し遂げたいと思う情熱を持っていて、そのエネルギーが人の心や社会を動かしていくのだと思っている。その証拠に、人の愛情を知らずに育ったカジモドも、エスメラルダの処刑後、恩人であるフロロを欄干から突き落とし、エスメラルダの墓に寄り添って一生を終える。ノートル=ダム大聖堂は、数百年にわたって静かに存在し続けているが、人間の社会は絶えず動いていくものだ。自分のあるべき姿と、それに収まりきれない情念とのジレンマ。いつの時代も、人間が運命を切り開こうとするときに何かのバランスが崩れ、それによってドラマが生まれるものなのだろう。しかし僕は、それはいつも悲劇で終わるのではなく、人間の勝利という幸せな結末をもたらす可能性も大いに秘めていると信じている。

 

 

優秀賞
椚山 亜莉沙さん 高1
『星の王子さま』 サン=テグジュペリ作 池澤夏樹訳 集英社

 

【作品】
 Gift~十五歳の夏の巡り合わせ~

 

 この夏、私は、久しぶりに、幼い頃の写真が無性に見たくなり、アルバムのページを、懐かしみながら、ゆっくり一枚ずつめくった。大好きだった兄を亡くしてから七年、写真を撮る機会もめっきり減り、こんな気分になったのは初めてで、自分でも不思議なくらいだった。兄との思い出が走馬灯のように駆け巡り、いつしか涙が私の頬を伝って、こぼれ落ちた。そして、あの頃の優しい気持ちと、兄の温もりが蘇り、胸が熱くなった。すると、一枚の兄の写真が、ふと気になった。母に尋ねると、それは、兄の三歳の誕生日記念に、写真館で撮影されたものだと判った。兄は、自分で選んだという「星の王子さま」の衣装を着て、満面の笑みで、こちらを見ている。私の大好きな、顔をクシャクシャにした、最高の笑顔が、そこにはあった。気がつけば、一緒に見ていた母も涙をボロボロ流していた。
 そういえば、小さい頃、兄と二人、同じタイトルの本を、母に読みに聞かせしてもらったことがある。挿し絵がとても可愛かったのは覚えているが、なんだか話が難しくて、正直すぐに飽きてしまい、その場を離れてしまったのも、母に対する罪悪感と共に、鮮明に思い出した。その罪滅ぼしではないが、兄のあの記念写真が、高校生になった私に、もう一度あの作品に巡り合わせてくれたような気がして、十年以上ぶりに、サン=テグジュペリの「星の王子さま」に、手を伸ばしてみた。
 やはり、最初に感じたのは、一見、ファンタジーを描いた童話のようであるが、起伏なく淡々と進むストーリーを読んでいくうちに、語られている事は、普遍の真理の連続で、まるで哲学書を読んでいるような感覚に陥るのは否めなかった。「大切なものは目に見えない。」「かけた時間の分だけ特別になる。」など、あの頃の自分では理解できなかった事が、今、大人でも、子どもでもない、十五歳の私には、この本の深さが、なんとなく分かったような気がした。
 印象の深いページは、何度も何度も読み返してみた。すると、次第に、この作品は、ひょっとして、全世界的傑作なのではないか?と感じるようになった。たった十五年しか生きていない私だが「一度、立ち止まって、人生について考えてみよ。」と言われているような気がした。日常に、ごく当たり前に存在する、身近な物の中に、大切な物は存在するのだと、改めて教えられたのだ。
 前日まで、懸命に病魔と闘っていた兄が、突然、ICUで、亡くなってしまった時も、同じ感情を抱いた事を覚えている。病気であれ、元気であれ、私が生まれた時から、当たり前に、いつも私の近くにいてくれ、私を安心させてくれた兄。兄の存在の大きさ、命の大切さを、最期の瞬間まで解っていなかった幼い私。いつか、もう一度、目を覚まし、いつもみたいに優しく「アリサ、一緒に遊ぼっ。」って、声をかけてくれると思っていた。呼吸器だって、そのうち外せるようになって、普通病棟に戻り、退院できる日が必ずやってくると信じていた。だから、兄との貴重な一日一日を、軽んじて、ただなんとなく過ごしてしまった。とにかく、一緒にいれて、楽しければ、それだけでよかった。兄の大好きな笑顔が、二度と見られない日が来るなんて、考えたこともなかった。もっと早くに、この本の意味する事を理解していれば、こんなに長い間、後悔という呪縛から抜け出せないままでいなかったはずなのに…。
 今回、この「星の王子さま」を読んで、沢山の事を学んだ。特に、兄との絆を思い出させる描写は、強く心が動かされ、胸を鷲摑みにされた。だから、また大人になって、この作品と再会した時、新しい発見があるのではないかと、大いに期待する。十五歳の今の私では気付けない何かを…。心で見なければ、物事はよく見えないという言葉を信じ、王子さまとの再会に備え、私自身、自分の心の目を育てていこうと、心に誓った夏だった。

 

優秀賞
柳 雄輔さん 高1
『変身』 カフカ作 高橋義孝訳 新潮文庫

 

【作品】
 私は、このカフカの『変身』は百年近く前に書かれた小説であるが、現代生じている問題に対しても通じる物語であると考える。すなわち、介護を必要とする老人や重病人を抱える家族の辛さや揺れる愛情、不意の事故や病気で障害を負った人の身体の痛み、孤独や嘆きである。カフカは、人であるということは一体どういうことであるのかという問いを私たちに投げかけているのではなかろうか。
 主人公であるグレーゴル・ザムザは、両親の借金の返済や妹の進学資金を稼ぐために毎日真面目に働く外交販売員だった。ある日、目を覚ますと自分の腕や手はなく、たくさんの小さな足のみの一匹の巨大な虫になっていた。巨大な虫に変身したグレーゴルの発する言葉は既に人間の言葉ではなく、訪問した上司や妹、両親までも驚愕させた。言葉も話せず、姿かたちは巨大な虫で床や天井を這うことしか出来ないグレーゴルを家族は邪魔者として扱うようになった。妹がけなげに食事を運んで家族の息苦しい生活はなんとか維持されていた。しかし、グレーゴルが巨大な褐色の斑点模様の姿を母親に見せたことで、母親は失神し倒れた。父親は激怒しリンゴを投げつけ、その傷がきっかけでグレーゴルは死ぬこととなる。虫へと変身したグレーゴルが死ぬ間際、妹はついに虫を「これ」と呼び、一種の無機物として扱い、人間である兄さんという存在から切り離し、放り出そうとした。このことは、これ以上手足も無く言葉も発さない「これ」を世話することは、永久に両親を含めた家族を苦しめることとなり、辛抱できなくなったからである。グレーゴル自身も自分は、はかなく消えて亡くならなければならないという考えだった。その夜、虫は息絶えた。残された家族は息苦しい生活から解放され、郊外へと出掛けた。両親は娘の若々しい姿を見て新しい夢とよき意図の確証を持ったのだった。
 カフカの『変身』は、時代を映す鏡のようなものではないだろうか。グレーゴルは、両親や妹のために懸命に働いていた。しかし、突然、不合理にも虫の姿に変えられ手足を失い、言葉まで失ってしまった。ベッドに横たわり介護を受ける状況と似ている。私の亡くなった祖父も家族を養うために懸命に働いていた。しかし、若年性アルツハイマー病になり、若くして手足は麻痺し、言葉を発することもできなくなってしまった。家族はその状況を主人公の家族と同じように受け入れるしかなかった。何の前触れもなく突然起こった悲劇である。祖母は、スプーンで食事を口元に近づけ祖父はそれをくわえる。手足が動かないため排泄物の処理や入浴は家族の負担となる。次第に物忘れがひどくなり、言葉も失い、孫である私すら誰だか分からなくなった。意思の疎通を失った家族は、絶望するも排除はせず、ただ生きているから世話をする。そんな状況になった。毎日懸命に働いてきた祖父に対する感謝と介護の辛さとの間で押しつぶされそうな祖母の姿を見た。ただ、祖母が、祖父をグレーゴルの妹のように一種の無機物として考えていたとは私は思わない。いや、思いたくないと言ったほうが正しいかもしれない。
 グレーゴル自身も死ぬ間際、妹の考えに同調し死んでもいいと考えていた。もしかしたら、亡くなった祖父も不自由な身体、発せられない言葉、身体の痛み、家族の辛さを垣間見てグレーゴルと同じ考えに至っていたのかもしれない。
 日本は、二〇五〇年には人口の約四〇%が六五歳以上の高齢化社会を迎える。私は、カフカの『変身』を、大事な家族がアルツハイマー病や重度の障害によってコミュニケーションが取れなくなっていく過程を描いた物語と読むことも可能であると考える。とすれば、介護される側と介護する側の心情の変化を描いていると捉えられるが、グレーゴルの家族は不自由になった兄の存在を最後に否定することとなる。そして、それは今後の高齢化社会を考える場合、介護される側の尊厳をないがしろにすることにつながりかねないのではなかろうか。
 私はこの作品を通して、人生において理不尽に突然襲ってくる重度の介護を必要とする事故や病気が生じ得るということを理解したうえで、個々人で問題を抱え込むのではなく、偏見を持たず寛容な心でお互いが助け合う。そして、介護を受ける立場になっても、その人が生きる負い目を感じることなく尊厳を持ち続けることができる。そういう社会を目指すべきであると考える。それが、人が人であろうとする本当の価値であると思う。カフカもそんな人間関係や社会をきっと望んでいただろう。