最優秀賞2作品、優秀賞3作品、特別賞2作品は、サイトに全文を掲載します。

 

まずは中学生の部の最優秀賞を受賞なさった大場 日菜子さんの受賞のことばと作品全文と、優秀賞を受賞なさった瀧川 にしかさん、特別賞を受賞なさった小西 和弥さんの作品全文です。

 

大場さんと瀧川さんには賞状と図書カード、小西さんには賞状と賞品を授与いたします。あらためまして、おめでとうございます!

 

このコンクールは本を読んで思いついたことを作文にして送るスタイルです。そのため、本の結末が作文に書かれていることがあります。結末がふくまれる作文には★注意書き★をつけましたので、まだ結末を知りたくない方は、ぜひ本を読んでから作文をお読みください。

 ※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。                        

 

【中学生の部】

 

最優秀賞
大場 日菜子さん 中3

『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ作 伊藤典夫訳 早川書房

 

【受賞のことば】

 私の文章が、このような賞を頂けることとなり、驚くとともに大変嬉しく思います。私は今まで、外国文学にあまり関心をもっていませんでした。しかし、この本で初めて外国文学に触れ、日本文学にはない皮肉っぽさやユーモアに引き込まれました。今回の作文をきっかけとして、国内・国外に関係なく、もっとたくさんの本を読みたいと思います。最後に、紹介してくださった国語科の先生と作文を書く際いろいろとアドバイスをくれた父に感謝します。

 

 【作品】
  私達に必要な情報

 

 私は今回『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ著・伊藤典夫訳)を読んだ。この本は以下のようなストーリーである。
 情報がひたすらに単純化され、民衆の受け入れ能力が薄弱になった世界。難解ゆえに民衆の混乱を引き起こすとして、本は見つけ次第燃やされることになっていた。主人公であるガイ・モンターグは昇火士であり、本を燃やす仕事をしている。ある夜通報を受け、上司と共にモンターグは現場へかけつけた。しかしモンターグはつい出来心から本を盗んでしまう。家へ帰りその本を読んだモンターグは本の価値に気づき、複製をつくって民衆に広めようとする。しかしどこからかモンターグが本を所持している事が知られ、モンターグは自らの手で家もろとも本を焼き払わされることとなる。その際上司に自分の企みが露見しそうになり、慌てたモンターグは火炎放射器で上司を焼き殺してしまう。犯罪者となったモンターグは川へ飛び込むことで街から脱出し、下流の田舎で年老いた男達に出会う。彼らは本の内容を記憶することで本を保護していた。モンターグは彼らと合流し、同志を探す旅に出る。
 私は、この本の面白さは舞台設定にあると思う。
 今までに本が規制される世界を舞台とした本はいくつか読んだことがある。しかしこの本には、それらの本とは異なる点がある。それは本に対する民衆の意識だ。
 この本では本を焼くことが法律で定められている。その法律に対して民衆は不満を持つどころか支持しているようだ。モンターグが妻に本を見せた時、妻はとっさにその本を奪い取り燃やそうとした。民衆の間で本は危険なものであり、それを所持するモンターグは反社会的な勢力でしかない。主人公が正義とされない舞台が、私には新鮮で面白かった。
 この本を読んで私は「知らないことの怖さ」を強く感じた。
 作中では他国の爆撃機が、何度も上空を飛んでいる。どうやらモンターグの住んでいる国は周辺国と仲が悪く、いつ戦争が始まってもおかしくないらしい。しかし登場人物のほとんどは戦争について話題に挙げない。最終的に街は爆撃を受けて消えてしまうのだが、彼らはあまりにも戦争を意識しなさ過ぎではないだろうか。
 この理由としては、単純化された情報に慣れ過ぎた人々が「戦争」という一筋縄ではいかないものの恐ろしさをよく理解できず、また理解しようとしなかったことが考えられそうだ。そしてこの人々はまるで「政治は難しくて分からないから投票に行かない」と言う現代の若者のようではないか。
 この話は完全なる創作ではなく、私達の選択によって選ばれた一つの未来予想と捉えることができる。そう捉えるとこの本は私達に単純化された情報とそうでない情報との付き合い方を考えさせているのではないだろうか。
 単純化された情報とは、短く分かりやすくかつ万人に受け入れられるような内容の情報のことだ。今の情報社会において私達は、単純化された情報ばかりを求め過ぎている。インターネットに頼り不確かな情報を鵜呑みにする人間がいい例だ。
 もし私達がこのまま単純化された情報だけを求め続けた場合、どのような問題が起こるのだろうか。
 まず人間関係が希薄になる。単純化された情報だけでは親密な関係を築きにくいからだ。互いの事を知る上で、見た目と性格の違いや好きになれない側面は必ず出てくる。単純化された情報に慣れ過ぎていると、それらの違いを受け入れることができない。だから自然と相手には深く踏み込まず、表面的な付き合いで済ませるようになるだろう。実際作中でも人と人のつながりは薄く、私達も昔と比べれば人関係はかなり希薄になった。
 また、受け止め辛い嫌な情報に対しての耐性が無くなる。単純化された情報はどれも、受け入れやすくされたものばかりだからだ。私達の誰もが受け入れられるようにするには、内容を大味にするしかない。そうなると私達は、得る情報を選り好みするようになる。分からないこと、嫌なこと、受け入れ難いことを知ろうとしなくなるだろう。すると私達に与えられる情報は、さらに口当たり良く受け入れ易いものになり、私達はさらに情報を選り好みする、という悪循環に陥ってしまう。
 ではどうすれば、そのような未来にならずに済ませられるのだろうか。
 まず私達は、情報を選り好みせず仕入れるべきだ。ただし仕入れるだけでは不十分だ。大事なのは仕入れた情報を理解し、説明できるくらいに知ることである。これからの私達の情報との向き合い方で、この先の未来が決まるだろう。この本を創作にしておくために、できる限りのことをしたいと思った。

 

優秀賞
瀧川 にしかさん 中3

『動物農場』 ジョージ・オーウェル作 山形浩生訳 早川書房

 

【作品】
 ルールがもたらす自由と未来

 

 自由と平等。その調和の鍵を握るのは、意外にも「ルール」の存在なのかもしれない。『動物農場』は、そのことを私たちに示唆しているように感じる。
 この『動物農場』には、ある農場で生まれた「国」の誕生と崩壊が書かれている。始まりは、農場を営む人間により支配、搾取、殺戮された家畜たちの怒りによる反乱だった。これに成功し、人間を追い出した彼らは自由と平等を求めて、人間のいない動物の楽園を築こうとする。ところが、しばらくすると動物たちの中でも特に利口な豚たちが権力を握るようになる。とりわけ豚のナポレオンは自身の権力を強め、やがて農場は彼の独裁体制に支配されていく。かくして、いつかの動物たちが夢見た自由で平等な世界は忘れ去られていった。
 しかし、なぜ動物たちの農場は、当初彼らが掲げていた理想とはかけ離れた世界になってしまったのだろうか。このことについて、まず彼らの求めた自由と平等の両立という観点から考えてみたい。
 作中、動物たちは自らの秩序を保つために、建国後すぐに、「服を着てはいけない」「ベッドで寝てはいけない」「酒を飲んではいけない」「すべての動物は平等である」などの7つの掟を定めている。これらの掟は、彼らの意志を統一させるとともに、皆の平等を保障しているが、図らずもその反面で、不自由な暮らしが強いられることも意味している。つまり、一見すると掟自体が「自由」と「平等」を分断してしまっているのだ。
 それはどういうことか。確かにルールのない世界であれば何をしてもいいという自由は存在する。だが、考え方や嗜好が人それぞれ違う以上、ある人が周囲を顧みず気の向くままに振る舞えば、それは他者の意思を犠牲にすることになる。それは換言すれば、他者への不自由さを強要し、平等を侵害することに他ならない。そうなると、社会は秩序のない無法地帯と化すだろう。もちろんルールを定めれば、こうしたことは抑制でき、平等な暮らしも保障される。ところが、今度はやりたくてもできないというジレンマが生じ、不自由さが残るのだ。このように、「自由」と「平等」の間には、少なからずこうしたトレードオフの関係が存在している。
 しかし、実は根本的な問題はルールの有無ではない。そのことは、『毎月新聞』の「たのしい制約」において、適度な制約が私たちの自由な営みをもたらしているという指摘がなされていることからも窺い知ることができる。あるいは、交通規則がなかったらどうなるか考えてみてもわかりやすいだろう。交通規則がなければ、車を運転することはおろか、道を歩くこともままならない社会となるだろう。むしろ私たちは、こうしたルールによって、自分たちの望む生活を手にしているのである。もちろん、かつての生類憐れみの令や禁酒法のように、快適な暮らしを著しく脅かすような法令に人々が反発することはあるが、基本的に人は一定の不自由さの中に自由さを感じているように思える。
 このように、自由と平等がトレードオフの関係にあっても、自由というのは一定の不自由さの中にあるということがわかれば、ルールは快適に機能する。つまり、動物農場においても掟の存在が問題なのではなかったのだ。実際、歴史的に見ても、どの時代にも何らかのルールは存在し、時代の変遷に合わせて改定を重ねながらそれらは整えられていくものである。動物たちが定めた掟も最初から洗練されていたわけではない。だからこそ、皆でルールを育てていけば良かったのではないか。しかし彼らはそうせずに、一方はそれを勝手に書き換え、他方はそのままの掟に固執した。そこに、ルールを育てるという発想はなかった。これは、風車の建設など目に見える農場の発展ばかりに力を注ぎ、陰で社会を支えているルールの洗練は放置してしまった結果とも言える。
 このことは決して他人ごとではない。この作品はときに人間社会を映し出しているようにも感じ取れる。たとえば、オオカミ少年のように大衆に嘘を吹聴して、自分の都合の良いことを信じ込ませる豚のスクウィーラー。一方、カラスのモーゼズの語る甘い幻想に踊らされる妄信的な動物たち。あるいは、働けなくなるまで農場のために風車を作り続けた馬のボクサーに至っては、しばしば勤勉と称される日本人の姿さえ連想される。このように、ともすれば私たちはいつでも豚にもなり、カラスにもなり、馬にもなり得る。
 その私たちの暮らしを支えているのが他ならぬ「ルール」だ。「第二の動物農場」とならない未来のためには、この先、私たちがいかに「ルール」を育てていけるかが鍵となろう。

 

参考文献
佐藤雅彦『毎月新聞』毎日新聞社、2003

 

 

特別賞
小西 和弥さん 中1

『モモ』 ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波少年文庫
『モロー博士の島』 H・G・ウェルズ作 雨沢泰訳 偕成社

 

【作品1】
『モモ』
 概念とともに

 

 どうして、みんな騙されていくのだろう。
 物語の中で、人々がこぞって、灰色の男に時間をあげわたしていく。ふつうに考えれば、時間は止められないし、戻ってもこないと分かるはずなのに。
 しかし、灰色の男は言葉巧みに人々に言い寄り、あたかも本人の意志で決定を下したように思わせて契約させ、それ以降は考える隙さえ与えない。
 その結果、多くの人は余裕なく時間に追われ、うすうす気付き始めた人でさえ、自己決定したのだから筋を通さなくてはいけないと、見て見ぬ振りをせざるを得なくなっている。
 このような構図は、ぼくたちの住む世界にも当てはめられる。ずる賢く言葉巧みな人間が、真面目な一般市民を騙していく詐欺が、まさにそうだ。
 こういった状況に陥らないために大切なのは、教養などの知識と考える力、そして、想像力だと思う。
 たしかに、お金は大切だ。お金がないと何もできない。だから、お金は増やしたい。そこまではいいとしよう。ここからが問題だ。貯金したお金は戻ってくる。しかし、時間は貯金しても戻ってこないし、どうやっても増やせない。
 もしも、騙された人たちに教養などの知識があれば、夢のような話や現実的な数字を羅列されても、疑問を抱いただろう。そして、なぜ疑問に思ったのかを自ら考え、未来を想像できていれば、結果は違っていたに違いない。
 ぼくたちが気を付けていなければ、いつでも灰色の男たちのような存在が生まれてしまう。いや、灰色の男たちのような存在はどこにでもいて、僕たちが気をつけなければ、飲み込まれてしまうのだ。
 この物語は、一人の女の子と時間泥棒たちとの話であると同時に、ぼくたちへの警鐘でもあると受け止める。
 ところで、ぼくがこの本を選んだきっかけは、塾の友達が『モモ』の話をしていて、興味が湧き、一度読んでみたいと思っていたからだ。
『モモ』は、とても読みやすかった。ドイツ語の原作は読んでいないが、これは訳者の功績ではないかと考えている。
 例えば、「良く聞く」でも「聞き入る」でもなく「耳をかたむける」という言葉を選んだように、訳者の選んだ日本語が、読者の想像力をふくらませるものであったり、ひらがなが多く、読み進めやすい漢字とひらがなのバランスになっていたり、会話がそれぞれの登場人物にぴったりの口調で書かれていたり、といった工夫である。
 また、この本は、経済学に詳しい人たちの間では、現行の経済システムの歪みについて書かれたものだ、との認識があるそうだ。実際、一九九九年の来日時に出演したNHKのドキュメンタリーで、作者はそういった内容に触れていたという。
 ところが、『モモ』の映画が公開された一九八六年に作者は、「『モモ』を書こうとしたとき、私は社会批判をするつもりはまったくありませんでした。私がやろうとしたことは、純粋に私的な課題だったのです。」と語っている。
 つまり、「無意識の概念」、もともと心の中にあった物語を文章にしたら、社会批判に捉えられていった、ということなのだろう。
 この物語は、六年もかけ、ゆっくりと書かれた作品なのだそうだ。まるで、カメの歩みのような速度だ、とぼくは思った。まさに、作者はカメが大好きで、五匹のカメと共に暮らしていたらしい。
「なぜ、カメが出てくるのだろう。」
 こんな風に、読んでいて不思議に思っていたことが、「自然に登場したのだ。」という作者の言葉を知り、納得に変わった。彼にとって、カメは自然と日常の中にいて、登場して当たり前の存在だったのだ。
 カメと同じ様に、古びた円形劇場が出てきたのもまた、イタリアでこの作品が作られた影響からだろうか。
 ところで、作者は、作品を作り上げていくなかで、人物や背景のスケッチやイラストを描いており、『モモ』のイラストも、作者自身のものだと知った時には、驚いた。
 さらに、彼の資料やコレクション約二千点が、長野県の黒姫童話館にあることを知った時も、驚いた。再婚相手が日本人だったことに関係するとか、しないとか。
 いつか、ぼくも、ミヒャエル・エンデの残した資料を見に、黒姫まで足を運んでみたいと思う。

参考文献
『モモ』 ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波少年文庫 二〇〇五年
『MOMOの本』 岩波書店 一九八七年
『エンデの遺言―根源からお金を問うこと』 河邑厚徳、グループ現代著 講談社+α文庫
『翻訳通信』 二〇〇四年一〇月号より 「名訳―大島かおり訳『モモ』」津森優子


【作品2】
『モロー博士の島』
 人間でい続けるために

 

 この物語の作者、ハーバート・ジョージ・ウェルズは、SFの父と呼ばれ、世界的に有名な小説家だ。
 ぼくは、ウェルズの『宇宙戦争』が好きだったので、『モロー博士の島』も読んでみようと、手に取った次第である。
 この物語で一番印象に残ったのは、「血の味」という言葉で、原作には、「The taste of blood」と記されている。これは、モロー博士の手によって動物人間にされた肉食動物たちの本能を目覚めさせる鍵となるものだ。
 この重要な鍵を、単純に「血」と表現するのではなく、「血の味」としたことで、より生々しさが際立ち、ぼくの想像力はかきたてられ、ドキドキしつつも、早く次のページをめくりたい衝動に駆られていった。
 こういった五感を刺激する言葉選びなどは、三度の映画化や、日本で翻訳本が十冊以上出ていたりするように、時代や国境を超えて人気がある秘訣なのではないだろうか。

 ぼくは、ウェルズが一八六六年生まれで、『モロー博士の島』が、一八九六年に書かれたことを知った時には、かなり驚いた。もっと、最近の人だと思っていたからだ。
 一八九六年というと、世界では第一回オリンピックがあった年で、日本では明治二十九年。歴史で習う勝海舟も、まだ生きていた時代だ。そんな頃に、壮大なサイエンスフィクションを思いつき、物語を紡ぐ人間がいたという事実に、ただただ圧倒された。
 ウェルズは、ダーウィンに感化され、『モロー博士の島』を作ったといわれ、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(一八一八年)からも影響を受けているという。
 一方で、ウェルズの『モロー博士の島』に影響を受けたジーン・ウルフは、『デス博士の島その他の物語』(二〇〇六年)を書き、同じく、ブライアン・オールディスらも、作品を作りあげている。
 また、映画『ドラえもん のび太の南海大冒険』(一九九八年)に出てくるDr.クロンは、モロー博士がモデルなのだそうだ。
 このように、誰かが誰かの影響を受け、物語を紡ぎ、五十年、百年、百五十年と、後生に引き継がれていくのは、何と素晴らしいことだろう。
 これから先、はたして、ぼくは誰の影響を受け、どんな物語を紡ぎ、どんな人たちに影響を与えていくのだろうと、つい、未来を想像してしまう自分がいる。

 物語の最後は、こう締めくくられる。
「なぜかわからないが、夜空の星をながめていると、そこにはかぎりない平和があり、守られているのを感じる。それはおそらく私たち人間が動物とちがって、希望やなぐさめを、毎日の心配ごとや苦労にではなく、広大で永遠な宇宙の法則に見いだしているにちがいない。希望がなくては生きていけない。だから、ここで希望をこめて、孤独な私の物語をおわりにしたい。」
 上手く言葉にできそうもないが、共感できる感覚がある。
 ぼくは天体観測が大好きで、惑星を観測している時、心が穏やかでいられる。これはきっと、物理的にも心理的にも、人間や日常と距離を置くことによって得られる平和なのだと思う。
 他者と心地いい距離を取りながら、常に自分の頭で考え、没頭できる何かを持ってさえいれば、人間は動物へと退化することなく、人間として、い続けられるのではないだろうか。
 人間の未来が明るいことを、ぼくは願う。


 参考文献
『モロー博士の島』 H・G・ウェルズ作 雨沢泰訳 偕成社 1996年
『モロー博士の島』 H・G・ウェルズ作 中村融訳 東京創元社 1996年
『モロー博士の島 他九篇』 H・G・ウェルズ作 橋本槇矩、鈴木万里訳 岩波書店 1993年
『科学について知っておくべき100のこと』 竹内薫監訳 小学館 2017年
『池上彰の教養のススメ』 池上彰 日経BP社 2014年
『幻想と怪奇の英文学―2』 東雅夫、下楠昌哉責任編集 春風社 2016年
『英文学にみる動物の象徴』 英米文化学会編 小野昌、佐藤治夫監修 彩流社 2009年
『The Island of Dr Moreau』 H.G.Wells著 Penguin Classics 2005年